世界は粒でできている

なぜキックボクシングは最強か

格闘技強さランキングの中で、キックはトップかどうか分かりません。相撲の方が強いかも。

なぜキックボクシングは最強か、それは「今この瞬間に集中でき、他人への執着心が無くなり自分を好きになれるスポーツだから。」と考えます。

この世は無である

大体2500年前、釈迦は、菩提樹の下で悟ったらしいです。諸行無常、この世の全ては変化を繰り返し、一定のものは無いということ。

お釈迦様の死から500年以上たって現れた「般若心経」はお釈迦様の教えを受け継ぎ、新しいエッセンスを加えた呪文のようなものですが、これを現代語に訳すると「この世の全ては無である。執着も苦しみも幻であるから、肩の力を抜いて気楽にいこうぜ。」という意味になるようです。

過去はもうすでに終わったので存在せず、未来なんてまだ来ていないので存在しない。今目の前にあるもの全て幻であり、苦しんでいる自分も実は存在しない。

過去と未来

では目の前にある森は存在しないのか?と疑問に思うかもしれません。これに対して、では森とは何なのか?森とは木の集まりである。では木とは何なのか?根と幹と枝と葉である。では幹は何なのか?樹皮、心材、辺材である。心材とは?これを繰り返していけばどんどん小さくなっていくが、じゃあ目の前にある森って人間が勝手に呼んでいるだけで存在しないものなのでは。みたいな。素粒子まで小さくなると、他の物体と同じになるので、それこそ森は存在しなくなる。

森

同じように、なぜ自分自身も幻と言えるのか。
「私とは何か?」という疑問に対して、身体か?それとも思考か?感覚か?これらは私を構成する要素であるが、どれも私とは言えない。よって私とは実は存在しないのである。という論法らしいです。なんかカッコいいですよね笑

つまりは、苦しみの原因も、苦しんでいる自分も、だから悩む必要なし!という教え。

量子力学の話

ネットと本の薄い知識しかないという前提です。。

ビルも、空気も、人間も、めっちゃ細かくしたら量子という(粒子)になるようです。一見すると全く違う物体も、実は全て同じもので出来ている。

これだけでも驚きですが、もっとワクワクする事実がありまして、この量子は、自分が観察して初めて粒の状態になる、観察していない時は波のような状態になる、ということ。

大丈夫です。分かり易くお伝えします。

例えばあなたは、職場の扉の前に立っている。扉は閉じられている。この時、部屋の中は観察出来ない状態であるので、部屋の中身の粒子は粒状ではなく、波の状態、つまり何も形作られていない状態:無であるということになります。

ここであなたは扉を開けて中身を観察します。この時、量子は瞬時に粒状になり、床や壁、机や同僚などが物質として構成されるのです。

簡単に言うと、あなたの視界の外は存在していない、と言うことです。

職場の扉

冗談みたいな話ですが、ここまでは量子力学の実験で立証されていることです。

この世はVRゲームの中である

ここからは都市伝説好きな私の妄想が入っているので、そうだったらワクワクするよね、程度のお話です。

あのイーロン・マスクさんがこんな事を言いました。
「私たちが住んでいる社会が現実である可能性は100万分の1にすぎない」

私はこの世の中が『グランドセフト・オート』もしくは『どうぶつの森』のような世界だとワクワクするなと思っています。

つまり、70億人同時プレイ可能なオープンワールドゲームだったらなと。

TVゲームの話をします。今あなたは任天堂スイッチをやっているとします。自分のアバターである主人公が街の中に立っています。この時、主人公の視界(もしくは画面にうつっている街の部分)にあるビルや人、車は物質として構成されています。

しかし主人公の視界の外だったり、隣町や近くにある海は、この時、無の状態、つまり存在していないのです。なぜなら、もし視野の外の、全ての建物や生き物までを構築しようとすると、ゲームの情報を管理しているサーバへのストレスがかかり過ぎて、画面が重くなったり、フリーズしてしまうからです。何回かゲーム中にそういう経験があるのではないでしょうか。

サーバへのストレスを軽減するために、主人公の視界にある物だけを計算、構築し、視界の外のものは何もしないようにプログラミングされているのです。

仮に主人公が後方を振り向けば、その瞬間に後方の世界が計算、構築され、さっきまで見ていた前方の世界は無に帰するという事です。

ゲームの中

後方には何も存在しない

ゲームの中

後方を振り向くと新たに構築される世界

また、ゲームの世界では人間もビルも海も光も、同じ「ビット」と呼ばれる情報で構成されています。ゲームの中では、自動車や太陽などそれぞれの役割をエンジニアにより設計されていますが、構成物は全て同じということです。

もうお気づきかと思いますが、今の私たちの生きている世界と、ゲームの世界では以下の点が非常によく似ています。
①視界に入ることで初めて世界は構成されるということ。
見えている部分以外は無であるということ。
③人もビルも空気も、全ては粒のような同じ物質で構成されているということ。

以上のことから、「この世は仮想空間なのではないか?」と言った仮説(世界シミュレーション仮説)を立てることが出来ます。都市伝説として、すごい面白いですよね。それと2500年前のお釈迦様が見つけた真理が、現代になって科学的に証明されだしているのがワクワクします。

ちなみに、量子が粒子と波の2面性を持つと判明したのは約100前らしいです。その時はTVゲームなんて無かったので、今でこそ「あれ、これTVゲームに似てね?」と仮説の一つくらい立てることが出来ますが、当時の研究者は何がなんだか分からなかったと思います。古典力学の常識を覆す実験結果にびっくりしたしワクワクしたんじゃないでしょうか。

さらにいうと、この「量子を観察すると振る舞いを変えた」という衝撃の実験「2重スリット実験」は、2002年にフィジックス・ワールドの読者による投票で「最も美しい実験」に選ばれたらしいです(よく分からないがすごそう)。

なぜ人生はしんどいのか

人生しんどいことが多すぎると思いませんか。

仏教では、「この世は一切皆苦であり、世の中や人生は思い通りにならないものだ」という真理を説いています。
一切皆苦(いっさいかいく)とは「人生辛いことばっかり!」という仏教用語です。

なぜ人生しんどいのかというと、仏教的には人や物に執着するからだそうです。SNS全盛の現代では、自分と相手を比較して優劣をつけて一喜一憂してしまうことが多いです。

これの何がまずいかというと、他人を幸せの判断基準にすることは他人の人生を生きることになり、他人にどう見られているかを考えて行動してしまうという問題があります。そういう人生に慣れてしまうと、自分とは一体何者なのか、自分は本来何に対してワクワクする人間なのだろうかという点を見失ってしまいます。自分より楽しそうだったり、物を多く持っている人に対して劣等感を感じ、自分のことが好きではなくなってしまいます。

また他人と比較してしまうと、他人より上に立とうとし、時には他人を攻撃し、争い、本当は自分に自信がない事を隠そうと必死になり、優位に立てたとしても一時的な優越感や安堵感を幸せと思い込んでしまうことになります。

「他人に執着し、比較することでしか自分を評価できない。」➡︎「比較の世界の自分は、自身の幸せ基準が無いので、沢山持っている人を見ると嫉妬し、自分を好きでは無くなる」➡︎「幸せの実感が欲しいので自分より下の人を見つける、または攻撃するなどして更に他人に執着する」

この執着スパイラルに陥ってしまうと、人生はしんどい事で埋め尽くされてしまいます。
これが僕が解釈している一切皆苦のメカニズムです。

なぜキックボクシングは最強か

初めのテーマに戻りますが、全てはここに帰結します。

この執着スパイラルから脱却すること、つまり他人との比較、執着から解放されることが幸せに繋がりそうな感じがします。

仏教的には、これまで述べたように無を実感し理解することが、これらから解放されることに繋がるとヒントをくれております。

キックボクシングはこのスパイラルにサヨナラする手段にうってつけだと思っています。
理由を以下に挙げます。

①トレーナーの指示のもとパンチとキックを絶えず全力で繰り出す必要があり、執着した考えを行う暇がない。


②片足で立って回転するというキック動作や、無数にあるキックとパンチのコンビネーションを繰り出すためには、脳みそでの複雑なバランス制御が必要であり、無意識に自分の身体に意識を向けることが出来る。つまり誰かと比較した自分ではなく、今ここにいる自分自身へ目を向けられる。


③殴る蹴ると言った行為は古来から人間に備わっている原始的な武器であるが現代社会では封印している動作であり、それらを思いっきり解放することで、目の前のことに精神を集中しやすくなる。


④ヘトヘトになるまで殴って蹴る、ガードして攻撃を防ぐ、たまに痛い思いもする。脳みそが身の危険を感じることで、大げさに言えば死をイメージする。危険を回避するために目の前のことに集中でき、日常の不安感や比較対象を忘れる時間となる。こういった行為は苦行と類似点がある。限界に少しだけ近く。


単純に強くなるので自分に自信がつく、トレーニングを乗り切った自分自身をただただ好きになれる。


⑥パンチを打ったり、たまに打たれたりすることで対人関係で必要な距離感、押し引きを身体で学ぶことができ、コミュニケーションに対する不安が軽減し、人と良い関係を築くことが出来る。

これらの理由から、キックボクシングは無を体感しやすく、それが執着スパイラルからの脱却に繋がり、自分自身を好きになれる最高のアクティビティだと考えております。

また蛇足ですが、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)という素敵な言葉があります。これは「あらゆる煩悩や苦しみから逃れた安らぎの境地のこと。」という意味で、ヘトヘトまでキックボクシングをした帰り道など、たまに、全ての人にハグしたくなるような、愛に溢れた精神状態になることがありました。その感覚を提供できるトレーナーになりたいと思い、日々なんとなく鍛錬しております。

まとめ

もしこの世がVRゲームの仮想現実だとしたら、クリア条件はあるのでしょうか。それは、いくら稼いだかとか、いくら徳を積んだか、といった特定のものでは無いように思えます。

なぜなら、特定の条件があるとしたら、この世はオープンワールドすぎるし、ルールも無さすぎる。

私はクリア条件のような特定のものは無くて、「1人の人生を体験してみよう!」みたいな、プレイヤーによって楽しみ方が変わるゲームなんだろうと妄想しています。

だとすると、人生とはそこまで気張る必要はなく、「さてこの人生、どう楽しもうかな」程度に考えた方が、幸せに生きることが出来るのかもしれません。

私が死んだ瞬間、私の人生のプレイヤーがVRゴーグルを外して「あー終わっちゃった。だけど最高の時間だったな。」と感想が出るように、肩の力を抜いて気楽に楽しく生きていけたら幸せです。